前回の**この人生の意味(1)**の記事の中で人生は皆持ち回りの役者だというお話をしました。
それは様々な「体験」をするために不可欠な「転生の約束事」でもあるのですが実は、体験以上にさらに重要なことがあります。
何より大切なのはその体験を通し、私たちは様々な感情を生まれさせますが、何より魂が知りたいと願うのはその時の心の動きです。
進化や成長をするための体験は、残念ながら幸せな状態では非常に効率が悪いのです。
時に痛みや悲しみが伴い、胸が押しつけられたり痛みを感じる出来事に遭遇した時こそ魂の進化は起こってきます。
なんだかとても厳しいことに聞こえますが、人の痛みや苦しみはそれと同じ体験をしたものにしか知ることはできません。
想像だけで人の痛みを知ることはとても難しいと思うのです。
例えば道徳教育で人に優しく、一日一善なんて間の抜けた教育をしなくても自分自身が痛みを経験していれば、今その痛みを受けている人にどんな言葉をかければ良いのか手に取るようにわかり、寄り添うことができます。
体験は様々な心の動きである「感情」を知らしめます。
マリーアントワネットが「パンがないならお菓子を食べれば良い」ということを口にして、革命を起こした庶民の激怒を買ったという有名なエピソードがあります。
彼女は何不自由ない生活をしていましたので、パンの一切さえも口にできない飢えた庶民生活を知りません。
もしか彼女が貴族の生まれでなく、その庶民の中から貴族階級になった人であれば、きっとその言葉は出なかったでしょう。
食べる物のない苦しみを知っていれば、お菓子を食べれば良いなんて、飢えた人の苦しみを逆撫でする様な言葉など恥ずかしくて言えない筈です。
そこには庶民の苦しみを知らない「無知」があったからでしょう。
ただ叩き上げで、ある地位まで上り詰めた人であっても人と人との関係性を大切にしながらその場所まで上り詰めた人と、人を踏み台にし道具にして上り詰めてきた人では、同じ苦しい生活をしてきた意味が大きく違います。
今高みにいる人でも、過去の自分の苦しい日々を口にできるのであれば、その人は自分の全てを肯定し、痛みや苦しみを理解しそこから逃げなかったことを意味すると思います。
でも今の自分を語る時、自分の黒歴史を口にせず隠そうとするということはその時代を否定したことになってしまいます。
否定した時、その時の時間のすべてを無かったこととし無駄な時間としてぽっかり穴が開いてしまうことになります。
痛みを感じた自分、泣き叫んできた自分、時に悪態を吐きながらもそれでも進んできた自分を隠すことなくさらけ出した時、その人の歩んできたすべての道に光が当たると思うのです。
自分を好きになるということはその黒歴史の時の自分さえも肯定し、愛おしく思えるかということが「自分を大切にできる」と言う事になるのでしょう。
年食ってくると「自分史」なんて、なんだか大仰なことを記録して行こうとする人もいますが、もしそれを編纂するのであれば、かつての自分がどれほどカッコ悪く情けなく無能であったかを隠すことなく綴ることが本当の自分史なのだろうと思います。
本屋に行くと「信長に見るリーダーシップ」とか「ケネディの勇気」とかそんな啓蒙書籍がありますが、そんなの読んでなんの意味があるのでしょう。
自分は自分であり他の誰でもない大切な自分。
そうであるのなら他者の生き方などヒントになどならないのです。
そんなことしていれば、本来の自分を見失う事になってしまいます。
できない自分、ダメな自分、無力な自分を肯定した時、次の道へのチケットを手にできるのですね。
それもこの人生の大きな意味という事になるのでしょう。
# by farmemory | 2020-10-18 00:02 | ・意識の自立と進化 | Comments(0)