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先日国立新美術館で開催中の展覧会「ウィーン・モダン/クリムト、シーレ 世紀末への道」に、大雨の中行って来ました。
雨の平日、きっと人も少ないと思っていましたけど、グスタフ・クリムトとエゴン・シーレの名前は、雨など物ともせず人を呼ぶんですね。

c0319737_00494345.jpgこの展覧会は19世紀から20世紀にかけて、主にウィーンを中心として花開いた既存の芸術に新しい風を入れたクリムトやシーレなどの作品を展示した展覧会です。

入り口を入ると、いきなり「ウィーンのフリーメイソンのロッジ」という作品が目に入ります。
ロッジの中の風景を詳細に描いた作品で、そこにはモーツアルトやカネシーダが描かれているそうです。

1785年頃の作品で、まだ世紀末と呼ぶには早い時期。

でもこのころから多くの人が圧政や理不尽な政治体制に不満を持ち始めた、その頃でもあるのでしょう。
つまりこの時代が世紀末に続く新芸術運動の芽生えの時期だったのかもしれません。

何人もの作家の作品が展示されていましたが、残念ながら私の興味はクリムトとシーレに集中していました。
ですのでせっかくの展示物の半分以上が通り過ぎるだけの絵画展になってしまいました。

そして早々に会いたかったクリムトとシーレのコーナーへ。
私が幼い頃にすでに大きな衝撃をもたらしてくれた私にとっての二大巨頭なの

奔放に、そして辛辣に人間の生きるエネルギーである「性」にフォーカスを当てた二人。
ある意味私自身の興味の対象を具現化してくれた人達なのです。

聖愛(性愛)はまさにリラの持つエネルギーの起点となるものです。

性を描くということは、私が今ライフワークと言っていいほどにこだわっている「リラの解放」「木花咲耶姫の目覚め」に繋がることと感じています。

しかし彼ら2人の表現する性愛からは、リラが表すストレートで突き抜けるほどに明るい「性」ではなく、人が頑ななまでに隠している性への欲求が倒錯の中からねじり出てきたようにも感じる、一種おどろおどろしささえ見えてくるのです。

食、性=生きるモチベーション、生きる意味の一つ。

本来人類は自由に奔放に性を享受する事が天の希望でもあったのですが、バチカンと言う強大なカトリックの管理下にあったヨーロッパの中で、性を描く事のハードルはどれほど高かったか・・

エロスという言葉は、自由奔放で解放された世界で使われるものではなく、制限と道徳という不自由さの中でこそ生きる言葉だったのでしょう。

だからこそ、この衝撃的な表現となったのではないかなとも感じるのです。
いわば既存の芸術や社会性への挑戦とも取れるのです。

ただこれはルサンチマン的な社会批判では全くなく、そこに生きる人々の感情にはしっかり寄り添っている事も感じるのです。
彼らの重苦しくドロリとした絵画表現の中に、不思議と暖かい人間味を感じるのです。

もちろん彼らには、そんな鬱陶しい道徳心など微塵もなかったでしょう。
ただただ自分の内面を表現したいという欲求だけがモチベーションだったはずです。

これは人が持つ「性善説」を物語る事なのではないか(飛躍かもしれませんが)そう感じることもあります。

「上品で綺麗ごと、美辞麗句なんかでは人の心など動かないよ!」
そんな叫びさえ聞こえてきそうです。

今私は商業美術の中にカテゴライズされている「イラストレーター」という職業についています。
しかしこれから先、その仕事の起点である経済社会が大きく変化して行くであろう事を肌で感じています。

なんだか今、真のアートの世界に進むための道作りの中に自分自身があるように感じてなりません。

社会的評価や対価により自分の作品を判断して来た時代が終わり、彼らクリムトやシーレが目指した真実の表現への道に進んで行けるのかもしれない。
そんな思いに駆られているところです。

時代は商業、経済の干渉から解放され、真のアートの時代に入って行く。
その感覚を得る事のできた(自分にとって)タイムリーな展覧会だったなと思っています。








by farmemory | 2019-06-17 00:42 | ・アートと新次元 | Comments(0)