**イデオロギーからの旅立ち**

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今まで人類が誇りにしてきた「民主主義」は、いずれ近い将来その役割を静かに終えて行く古い概念なのだろうなと感じています。

多くのメディアは真実を伝えるジャーナリストであることを自ら返上し、資本主義というビジネスのみに生きることを決めています。
多くの国家も国民の声を聞くこともなく法治国家であることさえ忘れ、国民主権も手放したように見えます。

こうした一連の流れは、今までの世界の視点でみれば民主主義の終焉とか、自由世界の崩壊と写ってしまうかもしれません。

欧米のメディアなどは、日本のいま現在の政治的ドタバタから、日本人が不可解で奇妙な人々であるとみているといいます。
「日本の民主主義はどうなっているのか?」
だそうです。

でも、その民主主義自体、優れた社会構造と思われて来たかもしれませんが、今それ自体の矛盾が表面化して来ているように思うのです。
特に若い世代を中心とした政治に対する無関心も、穿ってみるとその表れなのかもしれません。

これから向かう高次元では政治やリーダーが世界を変えるという世界ではなくなって行きます。
社会を変え、世界を変えるのは投票の一票でも、優れたリーダーでもなく「個々人の意識変化」こそが、自分を取り巻く社会も世界も全てを変化させて行く事なのです。

また今の民主主義は、少数の声、弱い者の声、もっと言えば天の摂理による真実の声を切り捨て、多数意見のみを選択するという偏った社会構成です。
そしてその多数意見に、もしなんらかの作為的意識誘導が仕掛けらているとしたら・・・?

マスメディアや社会教育を利用した意識誘導に成功し、自分で考え自分で答えをだす事なく、多数意見を「正解」とした段階で社会正義に裏打ちされるべき民主主義は無に等しいものになってしまいます。
人類は常に敵を探し、間違いを断罪し、正義を口にし自分という存在の立ち位置を探し続けてきました。

さらに言えば社会正義を大上段に掲げたとしても、その社会正義自体、国家のイデオロギーや宗教的ドグマ、社会構造や民族意識によって様々に変わって来てしまうのであれば、もはや正義とは呼べなくなってしまいます。

自国のエゴイズムによって成り立つ正義は詭弁に過ぎないと言うことです。

でも今回のお話は社会風刺や社会批判では全然ありません。

私たちが生きているこの世界は、すべて自分の想念が作り上げた世界です。
ということは、この社会や世界を批判したり憂いたりすることは、すなわちそれを作り出し、自分がその社会に生まれ何を体験するか決めたスケジュールを否定してしまうことになるのです。

確かに「困った社会、おかしな世界、眉をしかめたくなる日々」かもしれません。

しかしそれらすべてが、自分自身が体験したいと願って展開されてきた世界でもあるのなら、その中で様々な「おかしい事、不可解な事」を知るための体験でもあるのです。

「誰の言葉が正しいの?誰が味方なの?誰を信じればいいの?」
社会はその答えを探し続けていますが、有史以来人類は天の摂理を理解し受け入れようとはせず、そこに背を向けた所から答えを探そうとしてきました。

それでも、その生き方さえも私たちが望んだ生き方であることに違いはありません。
3次元と天の摂理とは二律背反する世界であり、その混乱と不条理に生きることで、矛盾や混沌、怒りや不安、悪意や欺瞞、我欲や執着を体験してきたのです。

そして自分の中で、今まで多数の声として(常識的に)伝えられてきた様々な事に対する疑問が湧いてきた時、その疑問にぶち当たった時、その時自分はどう行動し、どう理解して行くかが問われているという事なのです。

むしろ「なんかおかしい」と思う意識から社会批判や攻撃的革命意識が生まれてしまう事自体、意識誘導なのかもしれません。
本来天の摂理には「おかしいと感じる事」から「怒りや不安、暴力的(言論も含む)行動」に繋がって行く必然性は無い事なのです。

「不可解で不快だ」とストレートに感じた時、自分はそれをどう理解し、どう行動して行くのか?

それこそが私たちがここに生まれてきた意味の一つ。
人々の意識によって成り立って行く「社会」を目撃するという体験学習の一つなのでしょうね。

目撃し、それを理解する事が一つ
そして、その時自分にどんな感情が生まれ、なぜその感情が生まれたのかを「知る」という事がもう一つ。

それが完了した段階で、もはや社会から投げかけられる様々な問いかけは、乱暴な言い方ですが「用無し」になるのです。

次の次元では「国民や民族は一つになって」と言う排他意識は似つかわしくありません。
全ては受け入れられ、その存在を否定されない世界です。

でも自分にとって受け入れがたい意識に出会ったとしても、嫌ったり批判したりする事なく静かにその場を離れて行く。
その対応がとても重要になってくるでしょう。

自分が生き易い様に周りを強制的に変えて行くのではなく、まして自分に我慢を強いて無理やり自分を矯正する必要もありません。

さらには自分が肯定だけされる生温いコミュニティに逃げ込むことは、それ以上に古い生き方になるでしょう。

群れる事で個である寂しさを埋めるのではなく、個として答えを出せないから多数意見に浸り安心するのではなく、どこを探しても正解はなく、全て自分の中の答えに従い、個として全てを自己責任で決めて行く。
その「覚悟」を求められるのが次の次元なのでしょうね。

「集う」とはお互いを褒め合い肯定し合う場所ではなく、個々の人同士が答え合わせをしたり違いを知る場所だと言う事です。

    ・

なんか難しいお話になってしまいましたが
「興味ないし面倒臭いし、嫌な感じがするから私帰るね、バイバイ」
って事なのです。










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by farmemory | 2018-03-29 01:17 | ・新次元への道 | Trackback | Comments(0)

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