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2017年 02月 09日 ( 1 )

◆過酷さと助言◆

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◆過酷さと助言◆

この長い人生で私たちはいくつもの人生の試練や設問に出会いながら生きてきました。
その中には過酷さを伴う、「強大な試練」に出くわすこともあるでしょう。

しかしその試練が、自分が生まれる前に設定した体験学習としての試練ならば、どれほどそこを避けて背を向けようと決して逃げることはできません・・

例えば恋愛を例に挙げてみます。

今までにいくつかの激しく、時に切ない恋を体験してきた大人たちから見ると、若い人たちが恋に悩み傷つき、時に絶望さえ感じてしまう恋舞台のヒロイン、ヒーローを演じている彼らをみて「若くていいな〜」などと口にしてしまうこともあるでしょう。

微笑ましい笑顔と分かった風な大人の顔をして「今は苦しいでしょうけど、きっとあなたもいつかは恋というものが分かってきますよ」
などと言って慰め、勇気付けなどを口にします。

その若い当人にとって、その時体験している過酷さは、確かに達観できている大人がかつて通った道かもしれません。
しかしそれを彼らは「今」体験しているのです。

それを大人目線で微笑ましいと口にして(ましてその人に面と向かってそう言ってしまうことは)真剣に恋に悩み傷付いている彼らを更に追い詰めてしまうかもしれません。

苦しみを伴う過酷さとは、誰とも比べることができないその人だけの絶対的な体験段階です。

確かに過去にその道を通ってきた人にとっては、そこから多くを学び身にして来たかもしれません。
私もその時を思い出してみると同じように苦しく、それこそ悶絶してしまうほどの辛さを味わった経験があります。

しかし、誰に相談しても、結局は相談相手のスタンスからの答えしか得ることはできず、最後は自分自身で答えを出し、それを超えてゆかねばなりません。
むしろその孤独の中からしか、糧を得ることはできないのかもしれません。

大人目線で彼らに寄り添うことなどできるものではありません。

しかも恋は若い人だけのものではありません。
長い人生を生きて来た人であっても、新しい出会いや縁は必ずやって来ます。

その時、どれほど過去にいくつもの体験して来たとしても、今目の前で始まった恋には全く新しく新鮮な「初めて経験」する「初心者」になるのです。

達観を口にしていた大人たちも、きっと新しい縁に出会った時、またあの時と同じ胸の苦しさ、切なさが蘇ってくるはずです。
そして縁とは恋愛だけを言うのではありません、自分に関わるあらゆる繋がりを言います。
恋も仕事も友人も、趣味も様々に心に浮かんでくる「想い」さえも。

波にもまれて来たんだから「何が来てもへっちゃらさ」と思っていても試練とは全く同じことを繰り返すことではなく、似て非なる新経験を言います。

自分が過去に苦しい道を通ってきて今超えることのできる力を持っていたとしても、高いところから見下ろすような目線で、今苦しんでいる人に寄り添うことは難しいでしょう。

過酷さの中居いる人に寄り添い、今その人にとって必要なことを言えるかは、自分の経験値から言うのではなく、その人が今どのようなステージにいて、何を苦しんでいるかに心寄せ、それを理解するところから始めなければなりません。

もし相手の心に寄り添いたいと思うのであれば、その相手が纏っている(たとえそれがとても重いエネルギーであっても)状態を体感しなければ寄り添うことは出来ないのかもしれません。

今まで長い人生で得て来た体験は、その苦しい心の「状態」を知ることだったのです。
つまり「感情」をです。

「寄り添う」などと簡単に口にできることでないとも感じています、それ相応の覚悟を要求されることでしょう。

何より、自分がどれほど過酷な人生を送ってきたかを披露し語ろうと、また相手の苦しみが「自分にとって」どれほど些細な事と感じようが、高いところからの目線では言葉も想いも、祈りさえも届きはしないでしょう。

だからこそ手取り足取り相手を励まし勇気付けることより、時に助言とは静かに見守ることに尽きるのかもしれません。

真の過酷さとは、決して比べることなどできない、その人個人個人の世界で「今」体験していることなのです。













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by farmemory | 2017-02-09 00:30 | 日記 | Trackback | Comments(15)