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◆過酷さと助言◆

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◆過酷さと助言◆

この長い人生で私たちはいくつもの人生の試練や設問に出会いながら生きてきました。
その中には過酷さを伴う、「強大な試練」に出くわすこともあるでしょう。

しかしその試練が、自分が生まれる前に設定した体験学習としての試練ならば、どれほどそこを避けて背を向けようと決して逃げることはできません・・

例えば恋愛を例に挙げてみます。

今までにいくつかの激しく、時に切ない恋を体験してきた大人たちから見ると、若い人たちが恋に悩み傷つき、時に絶望さえ感じてしまう恋舞台のヒロイン、ヒーローを演じている彼らをみて「若くていいな〜」などと口にしてしまうこともあるでしょう。

微笑ましい笑顔と分かった風な大人の顔をして「今は苦しいでしょうけど、きっとあなたもいつかは恋というものが分かってきますよ」
などと言って慰め、勇気付けなどを口にします。

その若い当人にとって、その時体験している過酷さは、確かに達観できている大人がかつて通った道かもしれません。
しかしそれを彼らは「今」体験しているのです。

それを大人目線で微笑ましいと口にして(ましてその人に面と向かってそう言ってしまうことは)真剣に恋に悩み傷付いている彼らを更に追い詰めてしまうかもしれません。

苦しみを伴う過酷さとは、誰とも比べることができないその人だけの絶対的な体験段階です。

確かに過去にその道を通ってきた人にとっては、そこから多くを学び身にして来たかもしれません。
私もその時を思い出してみると同じように苦しく、それこそ悶絶してしまうほどの辛さを味わった経験があります。

しかし、誰に相談しても、結局は相談相手のスタンスからの答えしか得ることはできず、最後は自分自身で答えを出し、それを超えてゆかねばなりません。
むしろその孤独の中からしか、糧を得ることはできないのかもしれません。

大人目線で彼らに寄り添うことなどできるものではありません。

しかも恋は若い人だけのものではありません。
長い人生を生きて来た人であっても、新しい出会いや縁は必ずやって来ます。

その時、どれほど過去にいくつもの体験して来たとしても、今目の前で始まった恋には全く新しく新鮮な「初めて経験」する「初心者」になるのです。

達観を口にしていた大人たちも、きっと新しい縁に出会った時、またあの時と同じ胸の苦しさ、切なさが蘇ってくるはずです。
そして縁とは恋愛だけを言うのではありません、自分に関わるあらゆる繋がりを言います。
恋も仕事も友人も、趣味も様々に心に浮かんでくる「想い」さえも。

波にもまれて来たんだから「何が来てもへっちゃらさ」と思っていても試練とは全く同じことを繰り返すことではなく、似て非なる新経験を言います。

自分が過去に苦しい道を通ってきて今超えることのできる力を持っていたとしても、高いところから見下ろすような目線で、今苦しんでいる人に寄り添うことは難しいでしょう。

過酷さの中居いる人に寄り添い、今その人にとって必要なことを言えるかは、自分の経験値から言うのではなく、その人が今どのようなステージにいて、何を苦しんでいるかに心寄せ、それを理解するところから始めなければなりません。

もし相手の心に寄り添いたいと思うのであれば、その相手が纏っている(たとえそれがとても重いエネルギーであっても)状態を体感しなければ寄り添うことは出来ないのかもしれません。

今まで長い人生で得て来た体験は、その苦しい心の「状態」を知ることだったのです。
つまり「感情」をです。

「寄り添う」などと簡単に口にできることでないとも感じています、それ相応の覚悟を要求されることでしょう。

何より、自分がどれほど過酷な人生を送ってきたかを披露し語ろうと、また相手の苦しみが「自分にとって」どれほど些細な事と感じようが、高いところからの目線では言葉も想いも、祈りさえも届きはしないでしょう。

だからこそ手取り足取り相手を励まし勇気付けることより、時に助言とは静かに見守ることに尽きるのかもしれません。

真の過酷さとは、決して比べることなどできない、その人個人個人の世界で「今」体験していることなのです。













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by farmemory | 2017-02-09 00:30 | 日記 | Trackback | Comments(15)

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Commented by ユメミル夢子 at 2017-02-09 11:17 x
以前のわたしならば、友人の苦しみや悩みを聞き、同じような心の状態を自分の内に持つこともありましたし、なんとか友人の考え方を変えられないかと思うこともありました。そういう時はその後何日か身体の状態が悪くなったりしました。
今は友人の話を聞くだけになりました。友人は話をしたいだけで、アドバイスは求めていない、ということに気付いたからです。思うことはありますが、言わないでいます。彼女、彼らの体験を聞くことで私も疑似体験をしています。
 
今年はそういう年になるのかもしれません。
far memoryさんの文章に救われます。
ありがとうございます。

昨年から今年にかけて身内だけでなく友人たちがガンの病に罹っています。あまりに多すぎます。
でも、これは「ガンが治る病になる」前の過渡期かもしれないと思っています。
Commented by 志保 at 2017-02-09 19:16 x
すごくよくわかります。
いくつになっても、恋愛で相手が違えば同じ体験ではありません。特に若いころは思う相手を失うことがこんなにも辛いのかって思うでしょう。一生懸命に体当たりで、距離感もわかんなくて。でもそれが、本当に誰かを好きになることを経験するってことで、本当、これが実は幸せなことってわかるのはだいぶ後でした。。。
Commented by そらゆき at 2017-02-09 19:36 x
感情の波に翻弄されてるうちはよゆうをもって相手に寄り添うことがむずかしく自分自身切なかったです。
不器用ながらにも想う真実の想いいつか次元の壁を超えて伝わればうれしいなとおもいます。
Commented at 2017-02-09 19:38
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2017-02-09 22:07 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by MADOKA at 2017-02-09 22:51 x
こんにちは。過酷なお話ばかりで胸が苦しくなりますね。確かに人の身になるなんて誰にもできません。だから見守るしかないというのが最善の助言・・・というのも場合によってはありだと思います。でも、大人目線が必ずしも上からとは限りませんよ。過酷な状況から抜け出した経験のある人なら多分100%の確率で、そのとき誰かに、あるいは何かに救われた筈です。たった一人は最後の最後。人がたった一人を心底感じたとき、どうするかというといのちを捨てるのです。この世に生きるかかぎり、若いとか大人とか経験者とかは無関係に、過酷の渦中にある大切な友人、知人家族に対して何かしらのアクションをとるのは自然なことだと思います。お節介であっても、役に立つ言葉でなくとも、心からの言葉は癒しのエネルギーとなって相手に届きます。自分の「今」を気にしてくれているという行動は、無言の見守りよりも立ち直りの勇気を与えることもあります。「過酷」の最中の人は誰しも史上最悪の孤独の中にいるのですから、ここで会話をするならば、「これを乗り越えたら一緒に○○しよう!」と未来を「今」に見せてあげることだとわたしはおもうのですよ。寄り添って同じエネルギーに同調するのはわたしは反対。相手の身になると共倒れになるだけです。過酷な状態は自分自身の何かが招いた問題です。乗り越えるのは自分しかいない。でも、それでも人は人で救われる。そしてその人の傍にいる自分自身にもその過酷の一部があるはずなんです。だからこそ、そんなことなんでもないよ~という無責任な明るい態度が相手の闇にちゃちゃを入れ、出口のないような行き詰まったエネルギー溜まりに、ストンと光のさす風穴をあけることもあります。大切な人とは関わること。本気で関わって行ってほしい。今回の記事は、正直何をいわんとしているのかが分かりませんでした。でも、結局無性にコメント入れたくなったので長々とかいてしまいましたね。ゴメンナサイ。毎回記事を読ませていただいているんですよ。気になるから笑
Commented by farmemory at 2017-02-09 23:34
やっぱりコメントしてくださいましたね!(笑)
そう、そうです、寄り添うということは距離を保って、相手の意識やエネルギーに中に同調、同期しないことであることに間違い無いですね。
時に真理は冷酷な一面も見せて、そこからまた立ち上がってゆくことも・・・
これね、自分に言ってるんでっすよ。つまるところ。
この記事のどこを切り取ってくれますか?
Commented by MADOKA at 2017-02-09 23:53 x
しょうがないなあ。ではおしえてあげましょう笑
この記事の趣旨の部分は、
>今まで長い人生で得て来た体験は、その苦しい心の「状態」を知ることだった。
つまり「感情」をです。

です。だけど、この一文には足りない言葉がある。
苦しい感情の前には、必ず楽しく幸せな
感情があった。ということを忘れてはいけない。
苦しみが先に来ることはなく、その前に幸せがあるから、それに比べて今はどうなの⁈みたいに感情が揺さぶられるわけで。
だから「感情」という人の素晴らしい体験を共有する魂の同志として、エネルギーの統合をし合う私たちの試練。という解釈になれば良いかなー


Commented by farmemory at 2017-02-10 00:23
なんかさ〜自分が今楽しくてハッピーなもんだから、それを飛ばしちゃうんだね。きっと。
ゆるくだらしなく体たらくで暖かい。が好きなもんで、おほほ。
感情を知ることのできたこの人生、地球、旧次元、皆愛しいもの ”でした” ね。
切なさに涙し、過酷な日々に翻弄されながらも孤独と言う絶対的な安らぎを知ることのできたこの時空、それに報いたいですね。
Commented by リリコイ at 2017-02-10 11:45 x
感情、感情って囚われすぎると、言葉遊びに陥りそう。
それも又、ひとつの響きであって。
Commented by y at 2017-02-10 12:39 x
昨年の秋、ネットである申し込みをし、1ヵ月放置されたままだったので、その旨を受付担当者に伝え(留守電)、とても丁寧なメールがありほっとするも、更に放置が続き、今度は電話で直接話ができ、とても丁寧な対応をしてもらいほっとしていたら、その後も放置が続き、もう入金も済ませていたので、その後も2-3回留守電にメッセージを残し、それでも放置が続き、このような人が受付をしているところではたかが知れていると失礼ながら思い、留守電でキャンセルを申し出ると素早くメールで受理され、しかしその後の返金はなく、2と4週間後に再び留守電で返金をお願いしてやっと振り込まれ、それも普通なら80円の振込手数料を(どういうルートだとそうなるのか?)540円だったか変に高い金額を振込手数料を差し引かれていた…ということがありました。完全に嫌がらせをされているとわかっていたので①「もうお前はうんざりだ」と思いつつも、一番最初の留守電のメッセージが、そんなつもりはなかったのですが、単刀直入すぎて配慮が足りなかったのかな(反省)と思っていました。
昨日、ヤフオクで入札・入金後、連絡が来ないので、出品者に、今度は丁寧にしなければと思い「もしかして、お忘れではないですか…?」と控えめにメッセージを入れたところ、そこを上から目線の返答があった。明らかにこちらに理があっての上で相手を傷つけないように配慮しているのにそれがわからず…で②「ばかなんだなこいつは」(失礼><;)と思うことにして自分のもやもやを収めました。
単刀直入もダメ、配慮してもダメ、いったいどうすればいいんだー!!!(泣)と、理不尽な3次元の世界をかみしめていましたが、これは私の言い回しの問題ではなく、受け手の傷つきやすさ=弱さ故の敵対心の問題であって、これはもちろん私の①②も全く同じこと…と今朝思い至りました。
と同時に浮かんだのが蓮の花で、蓮の花は泥の中から咲く…と言うけれど、きっと蓮の花はそれを「泥」とは思っていないのかも。わーさすがだ!蓮の花はアセンションを体現している!お釈迦様の悟りのシンボル!…と思い、うれしくなってトレーを下げようと席を立つと、そこにドトールの店員さんがいてにこやかにトレーを受け取ってくれました。なんだかすごく「ありがとう」。
やっぱり栄養満点な「泥」なんだな(←「相田みつを」風)。でも早く卒業したいです。
そして遅刻ギリギリで出勤する。
Commented by 優香 at 2017-02-11 21:02 x
美味しそうなワッフルですねー( ̄¬ ̄)

Commented by farmemory at 2017-02-12 19:42
自作のワッフルです!えっへん。٩(๑❛ᴗ❛๑)۶
Commented by きな子 at 2017-02-16 16:32 x
子供のころの幸せな記憶は、人との関わりの中でなく、自分の世界の中、木や花や鳥や空や太陽、風、動物たち・・・そういう自然との触れあいの中ばかりです。人が幸せと呼ぶものは欲望に過ぎず、愛だと語るものは執着に過ぎない、そんな風に感じていました。子供だから、もちろん観念的に理解していたのではなく、のちに考えてみるとそういうことだなと思うような、ほとんど身体的な感覚に近いものとして感じ取っていたようです。つまり、わずかばかりの幸せのようなものと愛のようなものしか、経験した記憶がありません。そうであるのに、子供のころから、今、自分が「幸せ」とか「愛」とか名づけているものがどこかにあるはずだ、そう思っていました。そうであるはずだと「知って」いました。
でも、自分の生きる世界の中に、どうしてもそれが見つからず、ずっととても苦しんで生きていました。
今、自分で思い出してみても、かわいそうなほど、よく無事に生きてこれたな、と思うほどです。
幸せや愛に関して、楽しいうれしい思い出など、どこにもないはずなのに、です。
これがいつも不思議です。それはどこから来た知識、記憶なのでしょうね。
この地球での過去世? それとも、ほかの星での遠い記憶なのでしょうか。
あるいは、アカシックレコードを通した、誰かの記憶なのでしょうか。

Commented by そらM at 2017-02-23 14:27 x
父は母の病気が発覚後、鬱になり、母が亡くなった後、原因不明のふらつきに悩まされはじめ、恐れからくるパニック障害を起こすなど、わたしも悩まされていました。父の話を十分に聞いてあげようと思うも、アルコール依存で母と喧嘩の絶えない幼少期を味わったわたしの中で、今になって全面的に頼ってくる父に憤りを覚える自分がいて、悩んでいました。父のためと思って、いろいろアドバイスしていました。父の状況はよくなりませんでした。当然でした。わたし自身の問題でした。ありのままの父を受け入れず、アドバイスをしながら、父を変えよう変えようとしていたことに気がつきました。その後、話をする前には、エネルギーコードをカットする、オーラを広げるなどの自分を守るワークをし、話を聞くだけにし、父にお任せしました。耐えられずコメントしたときにも、そんな自分を許しました。自分自身のチャクラを整える、アファメーションをする等、自分を大切にしました。そして祈っていました。
父の肉体的な痛みは父が自分自身と向き合い、インナーチャイルドを癒す等、父自身が父のタイミングで行い、癒していけると感じています。
父がわたしに学びを与えてくれる人だと感謝するようになり、父が急に変わりました。ふらつきはそのまま、心が変わりました。
もう歩けなくなるかもしれないとバイクを手放したばかりで、あらたに購入し、楽しんでいます。部屋の片づけをはじめ、すがすがしく過ごしています。じっとしていると暗い事ばかり考えて駄目だな、動いていないとなと笑って話してきます。以前にアドバイスしていましたが、彼が実感するタイミングは今なんだと感じました。わたしの意識が変わって、父が変わったと実感しています。父の中にも光、愛がある。それを感じていきます。
セラピストとしても、あらためて思いました。
来てくださる方を不調であると判断せず、癒してあげよう自分がどうにかしてあげようと思わず、学びを与えに来てくださったと感謝していきます。
源の愛をわたしを通して、相手に受け取っていただこう。
癒す側、癒される側、という関係ではなく、双方が源からの愛を受け取れる素晴らしい場にいられることに感謝していきます。
ありがとうございました。