◆死を受け入れるという事◆

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◆死を受け入れるという事◆ [ 2013-12-03 19:09 ]

死を受け入れるという事は、いかなる死に方をしようともそれさえも受け入れるという事です。
出来れば安らかに死を迎えたいと願う言葉の中に、既に死を恐れる自分がいる事をお知り下さい。

確かに、いかなる事であれ死への意識が向かなくなった時こそ、死からの離脱という事になるでしょう
(死期を悟り、心構えや準備が始まるという事とは別の事です)
つまり永遠の命に足を踏み入れるという事を意味します。


私達は3次元の世界で苦しみさえも学びとして生きて来ました。
苦しい死に様であったとしても、それさえも私達には「自ら望んだ」体験でも有るのです。

私達の世界(全ての次元に当てはまる事ですが)は「自ら蒔いた種は自らで刈り取る」と言う因果律で成り立っています。

今の自分の有り様は、結果として自分の意識が引き寄せそこに存在していると言う事でもあります。
死に方も同じ事です。
しかし私達は生きている間に完璧に自分をジャッジメント出来るものでは有りません。

死を迎えたその瞬間、走馬灯の様に自らのこの一生をつぶさに思い出し再現し、その時始めて自分はこの人生で何をを知ったかを理解します。
仮に苦しい死に様をしたとしても、死の時に当たりそれが何故かを知る事で学習となり魂を成長させます。

人は最後の瞬間まで体験(学習)をし続けます。
仮に死を恐れる自分がいたとしても、恥じる事は無い訳です。

苦しい死に様は、その人の生前の行いだと責めた所で何の意味も有りません。
綺麗に死にたいから、苦しい死に様をしたくないからと言って「今」しなければならない学習を放棄し、死に方だけに意識を集中し”無理に”ストイックな人生を送る事は逆に言えば折角の体験時間を無駄にしてしまう事にもなります。

また他者が、死に様だけでその人の生涯に関し、とやかく言える事ではないでしょう。

思いもよらぬ災害や事故でなくなる方もこの世界には沢山居られます、中には野生動物に襲われその人生を終える事さえ有ります。
必ずしもベッドの上で長寿を全うし、静かに終えるだけでは有りません。

ではその方達は皆、魂の成長が未熟な方達なのかと言えば、もちろんそのような事等有ろう筈は有りません。

苦しい死に様とは生き続けている人からの視点に過ぎません。
どのような死を迎えようとも、死を迎えた後の魂は、等しくその重い肉体を抜け出て苦しみさえも無い安らかな高次の存在となります。
ただただ淡々と意識体となった自分が、生前の死んだ肉体を確認しているだけです。

(※浮かばれない霊というものも確かにいますが、これに関しては別の機会にお話し出来たらと思っています)

「憎まれっ子世にはびこる」と言う言喭が有ります。
自分勝手に生き、人に迷惑を掛けまくり、それでもヘラヘラと生きる人が、長生きをし畳の上で大往生をする、なんと言う理不尽な事かと言う皮肉から出た言葉です。

ここには大きな人生のヒントが有る様に思います。

確かに人に迷惑を掛け続ける事は、精神性が高いとは言い難いかもしれません。
しかし肝心な所は「どれ程自分に正直に行きたか」という所に有ります。

人に迷惑をかける事は他者に迷惑を「与える」とも言えるのです。
人は平坦で何の障害もない人生を送れば、苦しくはないでしょうが、そこでは学び自体も平坦で、高い学習効果はありません。
人との関係性の中で悩み傷つき、そして立ち上がり前に進む時始めて学習としての意味が生まれて来ます。

ある側面から見たら、憎まれっ子も誰かの為の悪役を買って出ている事になります。

身の回りにどのような生き方をしている人が居られようと、それは自分が体験したいから魂の指導に従っているのです。
仮に他者に対して迷惑を掛け、傷さえ付ける行為をしたとしても、それを行う自分もそうした行為を体験しているという事になります。
そしてその行為により自らが何を引き寄せ、何を知る事になるかを死の時に知る事になる、それもその人のカリキュラムな訳です。

人の人生に介入し、あなたの為だからと「お為ごかし」に善行を勧め、ストイックに生きる事を説こうとも、その人が受け入れるタイミングに無ければ馬耳東風です。
時にには手を出さず見守る事も強い愛情でもあります。

逆に、その人が真実に近付くタイミングに来れば、自らのハイヤーセルフの導きにより、間違いなく真実探求の旅への扉が開かれる事になります。
私達の魂の旅は遥かに続きます、一つの人生の死であろうとそれを逆手に取って自らの魂の成長に繋げる事が出来るのです。

しかし、だからと言って自分に取って苦手な人を「無理に好きになれ」と言う事では有りません。
高い次元では自分と全く意識や価値観が異なる人とも共存する世界でもあります。

苦手なものを無理に理解しようとする必要も無く、理解出来なく自分が混乱し、苦しい思いに至ってしまうのであれば、苦手な人や場所、行為や仕事があったら許される範囲で、そこから離れる事も決して人生から逃げるという事には繋がりません。
これは高次での予行演習ともなるかもしれません。

魂の永遠を信じる事が死を恐れない方法だけでは有りません。

綺麗な死を迎えたいから人生を改め正しく生きると言う意識は決して曲がった道では有りません。
しかし死を(死に方を含め)いずれ誰も迎える事なら、そこに意識を向け過ぎず、今生きている「この時」を大切に、そして楽しく生きると言う事に意識を向ける方が更に高い精神性という事になります。

   ・

しかし、5次元以上になると、死そのものが存在しなくなる筈で、あるのは「消滅」だけです。
魂が肉体を抜け機能停止し、腐敗に向かう事を死と認識していますが、高い次元では肉体の腐敗前に「消えて無くなる」ようです。

この光景はいくつかのリーディングでも見て来ましたが、特に印象深かったのがアトランティスの最後の時です。
このアトランティス時代は、決して高い次元に地球が移行していた訳では有りませんが、それでも意識の波動数が高い人々も存在していた事から、この様な事象も起こったのではないかと思います。

中には単純な「死」を迎えた方も居られましたが、大陸の崩壊と共に、かなりの数の人が「消滅」して行きました。
分子崩壊というものではないかと思います。


またこの先に待つ高次では、存在を継続する(生き続ける)事も、そこでピリオドを打ちその人生を終了させる事(消滅する事)も、自身の意思として天に受け入れられます。

私達は死ぬと言う制限の有る3次元を体験して来ましたが、今後向かう更なる高次元では死を恐れる必要の無い場所となって行く筈です。










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by farmemory | 2013-12-24 00:30 | ・今日を生き明日に向かう為に | Trackback | Comments(0)

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