◇覚悟もいる前世リーディング◇

◆覚悟もいる前世リーディング◆

前世を見る時にどのような風に見えるのかを良く聞かれます。

この話は以前したことがあります。
物の認識と言うのは通常五感を基本に考えがちです。
私たちが物を「視覚的」に認識すると言う事は対象物から送られて来る反射光(可視光)が網膜を通り脳に送られ、そこでその情報を演算処理し認識する事です。
しかし前世を見ると言う事(これは前世に限らず遠くの事象や未来を見る事も同じ事です「千里眼」「予知」などと言われるものです)
は私たちが持つ五感を必要とせず、直接脳が認識する視床にダイレクトに情報が「やって来る」のです。
ですから私たちが一般に認識する語彙では伝達できない事もあり古来一般に認知されない「天啓」「信託」「お知らせ」などと言った曖昧な表現になってしまっているのです。
これは、言わば第3の目、第六感などと言われ五感に関連する認識形態です。

しかしもう一つの認識があります、それは「感情」です。
被験者の前世を見る時にはその人の意識とシンクロし、その方の感情面と同化する事が良くあります。
体験した(している)状況を被験者の意識で見る事になります。
被験者の方がどのようにその事象を感じ取ったかを知ると言う事です。

物の見方と言うのは被験者の性別、年齢、立場、国、依存する宗教等によって大きく違う事もあるでしょう。
被験者の意識にシンクロしての認識と言うのはその点にも部分的に入り込んでのシンクロとも言えます。
これは私にとっても大変に意義深い事でもあります、つまり期せずして各個人の感情を体験できると言う事なのです。

時に母として子の行く末を案じ、時に領主として領民を統治し、またある時には最前線で敵と対峙する兵士の意識としてまさにリアルにそこに置かれた被験者の意識を体験する事になります。

しかしこれは自分の過去世であればそうではないでしょうが、他者の意識を通して見るとストレスに感じる事にもなりかねません。

家族を生かす為に自ら苦界に身を売る少女の意識、そして身を引き裂かれる思いで彼女を送り出す両親の思い。
見知らぬ男性に蹂躙される我が身。

兵士として戦場にいる被験者にシンクロした時の事、彼は第一次大戦のヨーロッパ戦線に従軍しています。そこは敵の顔が見える程の最前線。そして敵の砲撃が始まり塹壕に砲弾が着弾します。
吹き飛んで行く兵士たちの肉片や既に人としての形をなしていない遺体を間近に感じ、見る事になります。
そして初めて敵を自らの小銃で撃ち殺した時、いきなりその敵にも両親が居り、子が居り、家では彼の無事を祈る妻がいる事を「知る」その瞬間。
或は身に覚えの無い事で魔女狩りにあい宗教裁判にかけられ火あぶりにされる女性、足下から火を掛けられる感覚。

被験者の前世を詳細を持って「見る、感じる」と言うのは時に少しの覚悟が必要な事もあります。

この時、偏っていずれかの立場にいると恨みや恐怖、自責や排他的な負のエネルギーに落ち込んでしまいます。
それを避ける為に最重要な事は全ての事象に関して判断や感情を一切捨て去り意識をフラットに保つ必要があります。
いかなる社会性も宗教観もそこには介在させない事です。

スピリチュアル的になると言う事はこれが大前提になります。
常に言っている事ですが覚醒への近道はいかに全ての事象を先入観を除外し、社会性や宗教、イデオロギーさえも捨て去って見る事が出来るか。
全てはそこから始まると言う事がお分かりいた頂けると思います。


さて、スピリチュアル的な事に否定的な方がおられます。
経験上感じる事なのですが、そう言う方の多くは大変に生真面目で、社会性がありストイックな生き方をされている方が多いと感じられます。
今の自分がこの現実社会、信じる宗教や道徳感を良しとし、疑う事無く身を置いている方に取っては自分の信念と相反する全ての事象を「肯定的に」受け入れるのは時に苦痛と感じられる場合もあるようです。

いずれかの立ち位置に固執し軸足をそこに持っていますと相反する事象を目の当たりにしたり、それらを眼前に提示させられ受け入れざるえないくなれば、そしてその見せられた真実が目を覆う様な内容であったとしたら、酷い場合は精神崩壊すら起こしかねないかもしれません。
ですから否定する事は結果身を守る事でもありましょう。
これは表層の顕在意識ではなく、深層の自我、魂の部分がそうしている事だと思います。

否定的な意識の方こそ大変に生真面目で社会性があり「今」の社会ではむしろ賞賛される方、そして大変に温情の深い方と言う事にもなりましょう。

夏目漱石「草枕」の冒頭にある一節
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」

これこそが”今”の社会を的確に表している名言と思います。

むしろフラットでいると言う事は温情や恋慕の思いさえも切り捨てる事でもあります、見方を変えると非情でもあると言えなくもないでしょう。
しかし表層の自我が非情であっても魂の部分は決して非情ではありません。

魂の本質は菩薩やマリアの意識とも言えましょう、本来の魂はその慈悲のエネルギーが集合したものだと思います。
そこには一辺の凶悪さも存在しません、非情とも言えるフラットな意識に自身を置くとしてもご自身を責める必要など無いと言う事なのです。

人の不条理な死であっても、置かれた辛い立場であっても全ての事に意味があり、無駄な事は無いと言います。
人はこの次元に肉体を纏って転生して来る理由の一つは、転生する事により多くの経験を自ら望んで課題として生まれ来る事にある筈です。
時に不条理な社会を経験する為に選ぶ人生もありましょう、辛い身の上をわざわざ選んで来ている方もおられるかもしれません。

しかし今生きている人生には責任があります、この人生を自分の意志と責任で選んだ以上いかなる状況に置いてもより良く生きる事がその人の責務なのではないでしょうか。
前世など神秘的な事に迷い込み自らの人生の責任を放棄し自らの不条理を他に転化する生き方をするのなら、むしろスピリチュアル的な事を全否定しながらも自分の人生に責任を持ちしっかりとこの人生に対峙して生きようとする人の方が遥かに精神性は高いと言う事にもなりませんでしょうか。

人は生まれながらに罪人なのではなく生まれながらにして菩薩、Natural Born Maryです。
私は未だかつて凶悪な意識を持つの赤子や幼児を見た事がありません、聞いた事がありません。

非情と思われても恐れる事は無いと思います。
魂の慈悲のエネルギーを信じたらいかがでしょう。
そしてそれをご自身が気付き、思い出して頂けたらと思います。
そうあれば、いかに全てを捨て去ろうとも恐れる事など爪の先ほどもありはしないと言う事です。










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by farmemory | 2013-12-23 00:07 | ・前世リーディングと覚醒誘導 | Trackback | Comments(0)

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